#2 京都大学の学生はいかにして東京大学助教になったのか
日々生活していて、なかなか馴染みのない大学教員。
さらによく分からないのが大学教員のキャリア。
一旦どうして大学教員になったのか、そしてどうやって東京大学の教員になったのか。
吉村助教に、キャリアストーリーを語ってもらいました!
【吉村英哲 助教】
東京大学大学院理学系研究科化学専攻助教。京都大学工学部工業化学科卒業後、複数の研究所を経て、2009年より東京大学で教鞭をとる。
主な研究テーマは「生細胞内分子の動態解析と操作を通じた生命現象作動機構の解明」
目次
京都大学入学まで
ーー現在お肩書きとして大学教員というわけですが、そこに至る過程を教えてください。
そうですね、もう随分昔の事なので正確に思い出せるかどうかわからないのですが。
元々理系の人間でした。小さい頃からいわゆる理科が好きな子だったので、理系に行くんだろうなぐらいしか考えてなかったです。
小さい頃から理科が好きだったので、悩むこともなく理系に進学しました。
高校生の時点でやりたいことって決められるわけもないので、一番幅広そうで可能性の広い分野がいいなと思っていました。
*編集注 【京都大学工学部・工業化学科】:京都大学において最も歴史のある学科の一つ。大学開校の翌年の1898年に理工科大学の1学科として開設され、卒業生には、ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士、野依良治博士らがいる。 |
その時に大学のパンフレットを読んで、一番色んなことができそうだったのが、僕が受けた京都大学工学部の工業化学科でした。
そんなわけで、諸々含めて一番いいだろうという感じです。
京都大学の学部生時代
大学に入って興味を持ったのは生物
大学に入って興味を持ち出したものは生物です。生物系に興味を持ち始めました。
何で生物かというと、一般教養の授業の1つがキッカケでした。
精神科の先生が講師だったんですが、扱っていたのが、てんかんなどの疾患だったんですね。
どんな症状があって、どんな薬でどんな風に抑えられて、どんな機序で薬が効いてるのか。そんな感じの話だったんです。
広く浅くだったんですが、神経伝達物質の変化で全身の動きにどんな症状が出て、そこにどんな薬を飲むと発作が治まるというのを知ると「物質が作用する生き物って物体は本当に不思議だなー」って。
こんな感じで、生物と分子化学のつながり興味を持ち始めたのが、学部の最初の頃です。
学部4年では希望の研究室に入れず
4回生になると研究室配属があるんですが、その時の志望はタンパク質を扱っているラボでした。要するに、生物の部品になる分子を扱ってるようなラボを志望したんです。
でも、配属先のラボを決めるのは成績順で、残念ながらそのラボには成績が悪くて行けなかった。
結局、高分子系のラボに行くことになりました。
京都大学の大学院生時代
修士も希望の研究室に入れず合成化学をやることに
修士で大学院に行く時に、もう1回同じタンパク質を研究するラボを志望しました。
けれども、また院試の成績が悪くて、院試そのものは合格したものの第一志望のラボには入れず。
第3志望のラボに入ることになりました(なお、院試を受験する時点で、化学系専攻約50ラボの中から選んで第10志望まで申請する)。
そこは酵素の研究をしているラボで、研究室の紹介冊子を見てみると、タンパク質構造のイラストなどが描かれていて、そこのラボも面白そうだなと思ったんです。
しかし実際は、タンパク質や生体分子を使うのではなく、その酵素を模倣した物質を作って、酵素の仕組みを研究する研究室だったんです。
それはそれで面白い研究なんですが、実験としては、手の不器用な私には苦手な有機合成化学実験をメインにやることになりました。
教授の定年とキャンパス移転
次は博士課程で、これまで2回失敗したタンパク質のラボに再挑戦だ!と思っていた矢先、もちろんわかっていたことではあったのですが、そこの教授があと1年で定年だと聞かされました。
さらに、京大工学部の桂キャンパスへの引っ越しも予定されていました。
そのタンパク質のラボの先生ともいろいろ相談させてもらったんですが、多くの学生が学部・修士から5,6年かけて研究を仕上げるところを、博士課程から入ってきてキャンパスの引っ越しなどをやっていたら研究どころじゃなくなるだろう結論に至りました(よっぽど優秀ならよかったんでしょうけれども…)。
そこで、相談させてもらった先生たちからも紹介を受けて、別の研究所に行くことにしました。
博士課程は愛知県で過ごす
結局、総合研究大学院大学(総研大)という大学院大学の学生として、愛知県岡崎市にある国立の研究所「岡崎国立共同研究機構(現 自然科学研究機構) 分子科学研究所(分子研)」に入りました。
今までやりたかったタンパク質の研究とも同じ分野で、扱っている分子を見ても面白そうだなと思いました。
それに分子科学研究所は、必ずしも一般知名度は高くないですが、装置や設備それにスタッフがものすごく充実している研究所なので、どんな研究ができるか結構楽しみにしていました。
分子研では念願のタンパク質そのものを資料として扱う実験を始めました。
特に研究対象としていたのは、酸素センサーとして働くタンパク質でした。そのタンパク質の内部にある、酸素を感知している部分の細かな構造や動きをいろんな測定技術で解析することで、どうやって酸素分子を他の分子と見分けながら感知しているのかを解明する研究をやりました。
近づいてきた博士課程の終わり
そんな感じで数年経つと博士課程の終わりが近づいてきて、卒業後の進路を考えないといけません。
博士課程の実験で扱っていた試料は、研究対象のタンパク質を単離生成してきて濃い溶液にしたものでした。
もちろんこの溶液試料じゃないと測定できない物性もあるのですが、体の中にいるタンパク質ってこんな単離精製された状態でもないし、こんな濃度でもないし、実際に生体内で働いてるところとは違うよな、と思うようになってきました。
かといって、今から分子生物学とか生化学をやっても単に出遅れた人になるだけだろうし、どうしようかなと。
1分子生理学との出会い
どこか面白い行き先はないかなと思っていろいろネットで調べていたら「1分子生理学の研究員募集」というページを見つけました。
当時、1分子生物学について全く知りませんでしたが、生きている細胞の中の分子一個一個の運動を顕微鏡で見て直接解析するという内容で、色々調べて面白そうだと思いました。
それで「面白そうです、入れてください。」という内容のメールを送って、ラボを見学させてもらいました。
卒業後の進路が決まる
27歳になる年の春にラボを見学させてもらって、そこの研究室の教授の先生にいろいろ話を伺いました。
それから、秋ぐらいになって「改めて、正式に入れてください。」とお願いしたら「じゃあもう一度話をしましょう」となりました。
いわゆる面接みたいな感じで。
これまでやってきた仕事について2時間ほどセミナーさせてもらったあと、もっと広い研究の話題について鴨川沿いのカフェでランチがてら、また2時間ほどいろいろと喋りました。
しばらく話をして「わかった、採ってやろう」と言ってもらい。
その1分子生理学のラボ(京都大学再生医科学研究所)に行くことが決まりました。
2年3ヶ月のポスドク(博士研究員)時代
(現在は「医生物学研究所」へと名称変更)
研究者として博士号までとったんですが、それまでの分野と全く違うところに来たので、顕微鏡を扱ったこともないし、細胞培養も全くやったことない。本当に、何にもわかんない。
ラボに入ったら、学生さん達が喋ってる研究用語も知らない言葉がいっぱい。これは大変なことになった、と思いました。
ところで、ポスドク博士研究員っていう形で雇ってもらってたんですけれども、雇って頂いてる研究費が、僕が入った時点で残り3年って決まってたんですね。
なので、3年後には雇ってもらう予算がなくなってしまう。
だから、それまでにどこか次の行き先を探さないといけない。
東京大学から声がかかる
そんなことをぼんやりと考えながら、 ラボに来て2年経ったくらいの頃ですね、今の東大のボスが「来ないか」と声をかけてくれました。
その時やっていた研究がようやく軌道に乗りだしたところだったので、最初は東大に移るのにあまり乗り気ではありませんでした。
しかしあと1年で雇っていただいている研究費もなくなるし、研究者のポジションはなかなか見つかるものでもないしと悩みました。
同じラボの先輩に「いったほうがいいよ」って言われて、他の人にも相談したら「絶対行くべき」っていわれて。
再生医科学研究所で2年3ヶ月経ったところで、東京に移ってきたという流れです。
ーー周りに反対する人はいなかったですか?
ポスドクから教員になるという条件や、雇っていただいている研究費がなくなるという状況、一般的に研究者が職をなかなか見つけられないという状況などを考えると、行った方がいいというのは確かだったと思います。
なので、基本反対する人はいませんでした。
唯一、生粋京都人の嫁さんだけが嫌がっていました笑。
[文:ことね / 編集:吉中智哉]
[撮影:梨本和成 / デザイン:舩越英資 ]