#1 国鉄からJR東日本へ:民営化の舞台裏と改革の軌跡 - 元大宮駅長が語る激動の時代

日本の鉄道史における一大転換点、国鉄分割民営化。
その激動の時代を現場で経験し、JR東日本の発展に貢献した人物がいます。
元大宮駅長であり、現在は公益社団法人さいたま観光国際協会会長を務める筑波伸夫氏が、国鉄入社からJR東日本上場、そして地方創生への挑戦まで、自身の鉄道人生を振り返ります。
民営化の舞台裏、新幹線開発秘話、地域活性化への熱い想い。貴重な証言を通して、日本の鉄道史の裏側と、これからの鉄道のあり方を紐解きます!

【筑波伸夫さん】
慶應義塾大学経済学部を卒業後、日本国有鉄道(国鉄)に入社。国鉄からJR東日本への移行を現場で経験し、鉄道業界の大きな変革を見届けた。さまざまな業種を経た後、大宮駅駅長に就任。多くのプロジェクトを主導しながらターミナル駅の運営を担った。
現在は、公益社団法人さいたま観光国際協会の会長を務めるほか、株式会社JR東日本アイステイションズの代表取締役社長として、新しい鉄道サービスの展開や観光振興に注力している。
目次
大学卒業後は国鉄へ
ーー鉄道業界に入ったきっかけを教えてください。
家庭環境が大きく影響していると思います。祖父と父は鉄道員として、母は郵便局で公務員として働いていました。そのため、公務員になることは自然な選択肢の一つでした。
しかし、大学で様々なことを学ぶうちに、新しいこと、そして未来に関わる重要なことに携わりたいという思いも強くなりました。
資源の乏しい日本において「原子力は重要な柱になる」という認識が当時は広まっており、原子力研究を行っている企業への就職も考えていました。ですから、鉄道業界だけでなく、原子力研究所も視野に入れていました。
最終的に鉄道業界を選んだのは、親孝行に繋がると思ったからです。両親は息子を近くに置いておきたいと考えており、国鉄を受験するように勧められました。兄も教員でしたので、親孝行も良い選択肢だと考えました。

40代後半でようやくふるさと勤務へ
しかし、実際には故郷の新潟に全く帰ることができませんでした。就職活動の際、国鉄について十分に知らずに受験したため、新潟に帰れる可能性を確認していなかったのです。
40代後半になり、営業部長として新潟支社に異動した時は、両親ともに大変喜んでくれました。故郷に貢献したいという思いで、3年半ほど新潟で観光振興に力を注ぎました。
キャリアの正解は自分が満足しているかどうか
大学の同期は経済学部出身ということもあり、商社や銀行に進む人が多く、親の家業を継ぐために一旦銀行で経験を積んだ人もいました。また、一定数は地元に戻り、家業を継いだり、地元の電力会社やガス会社といった公共性の高い企業に就職した人もいました。
特に、波乱万丈な経験をした友人もいます。当時、商社や銀行では統廃合が相次ぎ、証券会社の倒産もありました。私の最も親しい友人の一人は、四大証券の一角であった山一證券に入社しましたが、その後倒産を経験しました。
本当に様々なキャリアがあります。何が正解かは分かりませんが、自分が納得し、満足しているかどうかが重要だと思います。

さよなら国鉄:現場から見たJR民営化
ーーJRへ移行する前の国鉄の様子を教えてください。
国鉄時代に感じていた問題点は、生産性の低さでした。終戦後、兵役から帰還した人々の就職先が不足していたため、国鉄は多くの元軍人を採用しました。必要以上の雇用を確保した結果、採算が合わなくなり、生産性も低下していきました。
歴史を振り返ると、当時の中曽根康弘首相が、政府が管理していた鉄道事業を民間の手に委ねることを決定しました。
これが国鉄分割民営化であり、1987年(昭和62年)4月1日に国鉄から東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)をはじめとするJR各社が誕生しました。
民営化で変わった事
ーー国鉄からJRへの移行で何が変わりましたか?
職場の雰囲気が大きく変わりました。国鉄時代は国営組織であり、法律による制約が多く、営業活動がしづらい面がありました。しかし、JRになったことでそうした制約がなくなり、「鉄道を通じて社会に貢献しよう」「新しい鉄道業界を創り上げよう」という改革意識が非常に高まりました。
その一方で、変化を望まない人もおり、ギャップがあったのも事実です。
JR民営化の前夜
ーー実際に民営化される当日はどんな気持ちでしたか?
「明日から国鉄ではなくJRになる」という日を迎えた時は、大きな不安を感じていました。
日本全国を統括していた国鉄が、JR6社に分割されることになり、国鉄本社から各社に職員が異動していきました。

私はJR東日本の本社に配属されましたが、民営化の前日には、
「明日、空いている席にはどんな人が来るのだろうか」
「明日の山手線はちゃんと動いているのだろうか」
「テレビは大袈裟に報じているけれど、本当に大丈夫だろうか」
東京駅の本社ビルから家へ帰る道すがら、そんな事を考えていました。
真の民営化へ:JRが観光促進をするワケ
ーーJRになって、制度上はどんな変化がありましたか?
人事制度においては、社員が出向して学ぶ機会や、他企業からの出向を受け入れる人事交流が積極的に行われるようになり、多様な考え方を吸収しようという動きが活発になりました。
航空会社や大蔵省(現財務省)など、幅広い分野との人事交流を積極的に進めました。
様々な考え方に触れることで、物事を進める際に、従来のやり方にとらわれず、外部から得られるものを取り入れるべきだという意識が醸成されました。
JR東日本は、国鉄時代を含めると152年(当時)の歴史があり、組織文化が保守的な傾向にあります。それに対して、自社とは異なる視点や考え方を吸収することが不可欠でした。
会社中心の発想では行き詰まることが多く、お客様のニーズを中心に考える必要があります。時代の変化とともに、手法や考え方もどんどん変化します。お客様の考え方や情報を外部から取り入れ、常にアップデートしていくことが重要です。
JR東日本がついに上場
このような改革の気運の中、社内外で真の意味での民営化が進展していきました。
1990年のバブル崩壊という経済状況の中、東北新幹線が開通(1991年)や山形新幹線の開業(1992年)といった好材料もあり、1993年10月には念願の株式上場を果たすことができました。
業績も向上し、民営化の成果を実感することができました。
従来、400キロ圏の移動では航空機が圧倒的な優位性を持っていましたが、秋田新幹線(1997年)や東北新幹線八戸延伸(2002年)などの開業を経て、新幹線高速輸送という新たな地位を確立することができました。
航空業界との競合
新幹線の新線建設には莫大な費用がかかります。そのため、利用客の増加と収入の確保が不可欠です。さらに、航空機との競合を考えると、単なる競争では共倒れになりかねません。そうならないためにも、利用客を増やす施策が求められました。
利用客の新幹線利用目的を分析したところ、JR東海では7〜8割がビジネス目的であるのに対し、JR東日本では約5割にとどまっていました。
仙台地区に限ればビジネス利用が多いものの、全体としてはビジネス以外の利用客を増やす必要があると考えました。

JR東日本が観光促進をする背景
観光需要の増加は、地域とJR東日本双方にとってメリットがあります。
JR東日本は、観光キャンペーンを通じて新たな旅行需要を創出しようと、本社が中心となり、各県の自治体と連携して取り組みました。増加しているインバウンド需要を考慮すると、観光需要喚起の取り組みは、今後の地方創生における重要なテーマとなります。
JR東日本は中期経営計画で地方創生を掲げており、JR東日本だけで完結できるものではなく、地域と連携して駅周辺の街づくりや地域の魅力づくりを進めていく必要があると考えています。
[ 文:東濱理沙 / 編集:吉中智哉]
[写真:梨本和成 / デザイン:舩越英資]
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