#2「全地球カタログ」人間版を作りたい!野村訓市が伝説の雑誌「スプートニク」に込めた思い

野村訓市(のむら・くんいち)

1973年生まれ、東京出身。ライター、インテリアデザイナー、俳優、ラジオパーソナリティなど多方面で活躍するマルチクリエイター。

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、世界各国を旅し、1999年には辻堂海岸で海の家「sputnik」をプロデュースする。

店舗設計事務所「TRIPSTER」主宰。映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)や『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)に出演。映画『犬ヶ島』では原案に関わるなど、国際的な作品にも活躍する。

海の家の設立と雑誌『スプートニク』の刊行

ーースプートニクが完成した経緯を教えてください

青山にIDEEっていう家具と内装の会社があって、そこにあるイタリアンのカフェが汚れているから、塗り直しのバイトをしてほしいと言われた。そのバイトをしたことがきっかけで、IDEEの社長と出会った。

社長は70年代にヒッピーみたいなことをしていたらしく、そのとき俺らがヒッピーみたいな格好だったから「今もこんなやつらがいるのか!」って言われてね。

社長は早稲田大学を中退して、世界を回って家具を売ったりというところから仕事を始めた人だった。でも当時は会社が大きくなってしまって、くだらないことなんて出来なくなってしまったといっていて。

100万円で何する?

社長は、慶應大学に行ってまでフラフラしている俺をみて「訓ちゃん、100万円貸してあげるから、何か面白いことしたら」と言ってくれた。

そこで一緒にペンキ塗りのアルバイトをやった同級生たちと「100万円は途方もない金額だけど、4人で割れば25万の借金で、その金額なら配送の仕事でもすれば1か月で返せるんじゃないか」っていう話になった。

じゃあその100万円で何をするか。自分たちがアジアやヨーロッパで楽しかったのは、夕方に海辺のジェラートバーとかに集まって音楽をかけて、みんなで遊んだことだと思い出したんだよね。そこで、日本の海でも同じようなことが出来るんじゃないかと考えた。

バーニングマンを目指して

ーーどうやって海の家を完成させたんですか?

拠点探しのために葉山から茅ヶ崎まで歩いていると、誰もいないビーチに一軒だけ小屋があって。ここで海の家をやりたいと思って、権利を持っている人に繋いでもらった。

そうしたら、その人はまぁ反社っぽい人というか反社だね、契約書もザルだったから、20箇所以上修正印をお願いして。「俺のことが信じられないのか!!」って怒鳴られたりしながら、なんとか海の家を完成させたよ(笑)

バーニングマンでいたパラシュートを使ったテントに憧れて、沖縄で売っていたNATO軍のパラシュートを買って見よう見まねでテントを作ってみたり、ハンモックで寝るのが好きだったから、ハンモックをたくさん並べたりした。夏には友達をDJに呼んで、1か月間海に住み込んで海の家をやった。

*バーニングマン:アメリカの荒野で年に一度一週間に渡って行われる大規模なイベント

バーニングマン公式サイト(https://burningman.org/about/) より

最初はあまりにも変わったことをしすぎて、宗教の集まりなんじゃないかという見方をされたよ(笑)。缶ビールが3本だったかな、売り上げ。

それでも最終日には1000人くらいが集まって、自作のバーニングマンを作って燃やしたり、やりたいことをしていた。その時は若さと勢いがあったからだと思うけれど。

海の家「スプートニク」

その海の家の名前を「スプートニク」にした。それはヒッピーっぽい名前にして昔の友達ばかり来るのも嫌だったし、ネイチャー系の名前にしてそっち系に捉えられるのも嫌だったから。

一応、反骨心があって。結果的にこれもまあ濃い感じにはなってしまったんだけれど。

例えば実際にそのときは取材できたわけではないけど、当時スパイク・ジョーンズが、なぜ映像の学校を卒業していないにも関わらずハリウッドで活躍しているのかがすごく興味があって。

実は知らないだけで親が映画監督なのか?とかものすごいコネでもあったのか?とか、変わってきた世の中のなかで、人がどうやって自分の仕事を始めたかってことに、当時の自分はそういうことにすごく興味があった。

スプートニクの2つの由来

第一に、旅行はしてきたけど、何者にもなれなかったという思いがあったから人工衛星にした。「何者にもなれなかったけど、定点観測はしたぜ」ということで。

*編集注:ロシア語でスプートニクは衛星。世界初の人工衛星の名前はスプートニク1号。

あと、ビートニクの本が好きだったから。ビートニクの”ニク”は、同じくらいの年に出てきたスプートニクが由来でついた名前らしい。

*編集注:「ビートニク」1955年から1964年までアメリカ文学界で異彩を放ったグループやムーブメントの総称。

イカしたインターナショナルな雑誌

それでスプートニクと名付けたら、IDEEの社長に「君は若いのに、僕らの文化をよく知ってるね」って言われて。

社長が海の家を見に来た時、昔の外国人の友達も来てたし、たくさん人が集まってたから「野村君は英語も喋れるし、いろんな人を知ってるね。 僕の夢はイカしたインターナショナルな雑誌を作ることなんだけど、君ならできるんじゃないか」って。

最初は雑誌なんかできないと思った。雑誌は鮮度が命で、その時必要とされている情報を瞬時に出さなきゃいけないから。そんなことやったことない自分にはできないと思って。

「全地球カタログ」の人間版を作りたい!

そこで、その時自分が一番欲している物だったら作れるんじゃないかと思った。自分に興味があったのが、企業に所属していないような、独立して活躍する各業界の人たちがどうやってキャリアを築いたのかということだった。何がきっかけでみんな今の仕事をしているんだろうって気になって。

昔、スチュワート・ブランドというヒッピーのプロトタイプみたいな人がいて、その人が作った全地球カタログ(Whole Earth Catalog)という雑誌があって。それはどうやって自分たちが生きていけばいいのかが網羅的に記されている辞書的な本だった。今でいうWebみたいな本。

https://wholeearth.info/ より

チャプターが動詞で分けられていて、例えばliveで探すとDIYの家の作り方が出てきたり、それを教えてくれる本がどこで買えるか、どこに手紙を書けばいいかが分かったりするものだったんだ。

そこで自分はWhole Earth Catalogの人間版を作りたいと思った。何かやりたいことがあった時に、過去にどんな人が、どんな風にキャリアを築いたのかが調べられるようなもの。

世界を2周して会いたい人に会う

それをIDEEの社長に言ったら、社長はWhole Earth Catalogを読んでいる世代で、「いいアイデアだから、お金はないけど作ってみよう」ということになった。

当時は、ヨーロッパ経由でアメリカとか5か所を20万円で周れる周遊券みたいなのがあって、それを買ってまずロンドンに行った。そこでは友達の家に居候しながら、自分の会いたい人リストを片手にとにかく突撃してたね。

名刺もない状態だったけど、それでも話を聞いてくれる人はいて、少しずつ取材が出来るようになってから、あとはわらしべ長者だった。映像会社のアシスタントをやっている友達のツテを使って、会いたい人の住所を手に入れるみたいな。

 突撃しまくってたよ。 取材した人とすごく仲良くなって、その人がまた別の人を紹介してくれたりとか。

結局半年間で世界を2周したんだけど、一度もホテルには泊まらなかった。全部居候とかで、取材した人の家に泊ることもずいぶん多かった。荷物を背負ったまま夜取材に行くと、「遅いし泊まってきなよ」って言ってくれるんだよね。

【文:若林千紘 / 編集:東濱理沙】


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